巻頭言 「実験室のにおい」

(熊本大学理学部生物科学科 谷 時雄)

 朝、実験室のドアを開けると感じるあの独特なにおいと雰囲気。

古い寒天プレートや雑菌がコンタミした培養液をオートクレーブした後の強烈なにおいには閉口するが、実は私はそれらを含めて実験室の「におい」をとても気に入っている。

 研究室が異なると、それぞれの実験室に独特なにおいや雰囲気が醸し出される。しかし、一方で実験室に共通のにおいがある。私は現在までに5回研究室を異動した。研究室を移動した際には、新たな環境に慣れるまでストレスも多い。しかし、ピペットマンを握り、学生の頃から使用している自作のアクリル板チューブ立てを前にベンチで実験を始めると、実験室の共通なにおいは新しい研究室に所属する緊張感を大いに和らいでくれた。

 新しい研究室に移るとそれぞれの場所で実験手法に研究室独自の流儀があり、新しい発見があることも楽しみの一つである。以前、製薬会社の研究所から大学へ移ったときには、実験室以外のところで組織が大きく異なるため、とまどったことも多かった。今年、教官になって初めて別の大学に異動することとなった。大学という同じ枠組みの中で、同じようなことを協議しているはずの教官会議の雰囲気や、学生に対する指導方針・取り組みといった教育環境など、人間が関わる諸々の部分にはそれぞれの大学における特色があって、驚くと共にその違いを楽しんでいる。

 教育研究環境といえば、最近、文部科学省から大学構造改革の方針が出されて、国際競争力のある大学づくりの一環として、国公私立を通じた世界最高水準の「トップ30」を育成するプログラムが実施されようとしている。「トップ30」の中に選ばれれば、年間かなり額の予算が付くので、如何にしてその中にはいるか我々も含めて各大学各専攻で汲々としている。しかし、多くの方からおしかりを受けるかもしれないが、「トップ30」に入れるぐらいの所は、既に建物などの施設は別にして、機器備品などの充足に関してはとっくに欧米に追いつき、場合によっては追い越しているのが現状では無かろうか。私は平成5年から6年にかけて、ノーベル賞受賞者を輩出している米国コールドスプリングハーバー研究所に客員研究員として滞在した。その当時でさえ既に日本の有力国立大学の研究設備の方が最新式でりっぱな機器を使用していた。当然のことであるが、良い独創的な研究が必ずしも高額の最新研究機器に依存したものでなく、あくまでも研究を行う「人」によって生み出されるものであることに改めて気づかされた。

 最近、子供の理科離れが話題になっている。我々の学科では高校生対象に「遺伝子を見てみよう」と題した公開実習を先頃行ったが、参加した高校生達は予想以上に好奇心旺盛で、電子顕微鏡を操作してDNAを実際に目で見、PCRで自分の遺伝子が増えることにキラキラと目を輝かせて新鮮な感動を示してくれた。理科離れの心配など少しも感じさせなかった。このような試みは大学の一つの使命でもあろうが、今回の企画に対して使える予算は関係のある学会から試薬費の一部とテキストの印刷に消えてしまう程度のものを捻り出すのがやっとで、実習に必要なものの多くを担当者の持ち出しでまかなうしかなかった。

 日本から世界トップレベルの研究成果を発信し、我々が科学技術立国としてやっていくためには、いうまでもなく人を育てることが大切である。「トップ30」の理念はそれはそれで良いのであるが、本来は研究者育成の「すその」を広く、また層を厚くするための方策と予算を考えた方が将来的に随分実効があるのではと感じている。今回の重点投資にしても、ほとんど使われない高額の機器を一部の研究室の片隅に増やすようなことにならないように切に願いたい。

 私自身はといえば、一人でも多く実験室の「におい」に魅力を感じる学生を育てたいと思っている。

日本細胞生物学会会報「細胞生物」133号巻頭言 より 許可を得て転載
(平成13年10月執筆) 

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