熊本大学 理学部

Pure Science

存在と弁明と笑う数学者

数学コース 教授 濱名 裕治

 以前どこかで「多くの偶然とわずかな必然で人生が成り立っている」と書いたことを思い出した。これがそれほど的外れでないのであれば、今、こうして筆を執っているのは単なる偶然なのだろう。

 数学者を志したあたりから常に嘔吐感がつきまとっている。そしてそれは、辛うじて数学界の末席に滑り込むことができてから25年以上も経過した今でも一向に収まる気配がない。数学者であり続けることへの重圧感に原因があるといえば多少なりとも格好がつくというものなのだが、結局のところ、自身の無能さに辟易としているだけなのかもしれない。それとも、偶然この世界に存在していることの不自然さによるものなのだろうか。

 数学に対しては必ず「社会の役に立つのか」という質問が投げかけられる。この場合、「役に立たない」という前提で行われるのが常なのであるが、そのように公言する数学者が少なからずいることで話が面倒なものになっている。少ない知識で少し考えただけで役に立つと判断できるものは、おそらく、底が知れている。数学というものは必ずどこかで役に立っているもので、それが実感できないほど複雑にそして奥深く社会にかかわっている。世の中、それほど単純にできているわけではない。ただその一方で、実際のかかわり方などは知る由もなく、数学でもって生業を立てている者として大層極まりが悪い。そういった一種の自己矛盾といえるものに抵抗を感じなくなっているのは知らず知らずのうちに処世術を会得しているのかもしれない。

 数学において研究スタイルは大まかに二種類に分類することができる。一つは時代の流行を敏感に感じ取り時代の最先端を渡り歩くもの。もう一つは古典的な内容を独自の流儀で掘り下げていくもの。どちらを選択するかは研究者自身の哲学によるが、これら二つの間に優劣の関係は存在しない。脚光を浴びるのは得てして前者ではあるが、後者に対しては多大な敬意が込められる。また、前者の場合、競争相手は世界各地の研究者となるが、後者の場合の競争相手は自分自身となる。幾ばくかの格好良さに惹かれて後者の世界に身を置いてきたのであるが、果たして、どれだけの敬意が払われ、どこまで自身と戦ったであろうか。あと二十年もすれば片がつく。そのときに跡形もなくなっているのでなければそれでいい。そして、できればそのときまでに嘔吐感が消えてなくなっていて欲しい。

 実社会はともかく研究の世界においては、大方の数学は美化する時間も与えられないまま風化しその痕跡すら残らない。最近、言い訳をするのに抵抗感がなくなってきている。悲愴感を抱えながらも現実を楽観的に受容しなければ数学者稼業などやっていけないのかもしれない。